カバラの術について 3-8

 
シモン「我が民の多くは、10の数えること(カバリストたちはセフィロト(単数形ではセフィラー)と呼んでいます)を様々な形で扱っています。これらは時には樹のイメージで表されたり、時には人のイメージで表され、そのためこれらのイメージでは、樹の根、幹、枝、樹皮だけではなく、頭、肩、足、足元、右側、左側も多く述べられています。

 これらは10の神的な名前であって、そのエッセンスにせよ、特に割り当てられたものにせよ、概念的にせよ、実際的にせよ、人が思い浮かべられる神の概念を形成しています。それらの名前は、「王冠(ケテル)」、「知恵(ホフマー)」、「理解(ビナー)」あるいは「知性」、「憐み(ヘセド)」あるいは「善意」、「厳格さ(ゲブラー)」あるいは「厳粛さ」、「美(ティフエレト)」、「勝利(ネツァフ)」、「栄光(ホド)」、「基盤(イェソド)」、「王国(マルフート)」です。さらに王冠の上にも、エイン ソフ――「無限」あるいは深淵とも呼ばれるものが置かれています。

 私はさらに話すべきか、沈黙を保つべきでしょうか? この事柄は我々には深すぎる思弁であり、我々の思索の全てが沈む膨大な海であって、沈んだ者はある種の割れ目に落ちるのです。

 ほとんど全ての国々の、多くの初心者の神学の学徒が、神の属性の概念を思弁するのに日夜労苦することを、あなた方は覚えていますか? 彼らの一部はこれらの概念を「神の中にある完全」と呼び、他の者らは「否定」、「肯定」、「絶対」、「相対」、「内包」と呼んでいます。あなた方は今ではこれらの概念については、カバラの書「光の門」の要約、かつては我々と同じユダヤ人でしたが、今ではキリスト教徒となっている、博識なパウロ リッコがカスティーリャのラビ〈ギカティラ〉の言説を集めてラテン語に翻訳したものと、彼自身がカバラについて書いた「エイサゴーゲー」から、容易に理解できるでしょう。また他にもこの主題については、カルニトルの息子、カバラの偉大な師、ラビ ヨセフ〈ギカティラ〉が「義の門」で書いており、また多くの注釈者が10のセフィロトの樹について書いており、この難解な主題を明快にし、ほとんど全ての古の聖典を、これら10のセフィロトへと還元して、さらにそこから10の神の御名に、さらにそこから、神聖四文字の1つの御名へと還元しています。

 彼らはエイン ソフとは〈ヨハネの黙示録に出て来る人物〉アルファにしてオメガであると主張しています。彼は「私は始めにして終わりである」と述べているからです。また彼らは王国の「王冠」とは、世々にわたる源泉、憐れみ深い父なる神のことであり、その神秘は真理を通じて、そのエッセンスに封じています。我々の高貴な師、エリエゼル ハ=カリルは「真理は彼の印である」と述べているからです。これは計算によっても証明できます。我々がエヘイェー(これはヘブライ語で「エッセンス」を意味します)を再びエヘイェーで掛けたならば、441の値を得、これはエメト、「真実」や「真理」を意味するヘブライ語と同値となり、さらに「アドナイ シャローム」(平和の主)とも同値となります (*1)。さらにこの根源には、大いなるアレフ、主の畏れ、到達不能の光、永遠の日々も降りてきています。偉大なカバリスト、テダクス レヴィが10のセフィロトについて記した書の中で、「彼は古き時、永遠の日々から来ている」と述べているようにです。

 第2のセフィラー「知恵」については、それと関連した属性の中には、長子、イェシュ(存在を意味するヘブライ語)、原初の法、神聖四文字の最初のヨッドの字、生ける者の地、32の小路、70種類の法、戦争、裁き、アーメン、書物、聖なるもの、意志、始まりなどがあります。第2のセフィラーが「始まり」とも呼ばれていることは、おそらくあなた方は驚くでしょう。それについては、カバラの偉大な師であるラカナトが、創世記の始めについての注釈書の中で、「おそらく、あなたは知恵が第2のセフィラーと呼ばれる時、それが始まりとも呼ばれるのは何故かと尋ねるだろう。それについては、バヒールの書で『知恵無しには始まりはない』と書かれている」と述べています。

 私は無限そのものが、カバリストの10のセフィロトの樹の頂上にある3つのセフィロト(あなた方は通常それらを、神の3つのペルソナと呼んでいます)の中に存在すると答えることは正当であると考えています。無限とは最も絶対的な神のエッセンスであり、影の深みに沈み、無に横たわる、あるいは寄りかかっていると言われ、それゆえ「無」や「存在しないもの」や「終わりなきもの」(エイン ソフ)と呼ばれています。我々は神的な事柄への理解が欠けているので、見えないものを存在しないものと同じように判断するからです。

 ですが、それが自らを示し、何かとなり、実際に存在するようになったら、この闇のアレフ(א)は輝くアレフへと変わります。「その闇のように、その光がある」と記されているからです。その時には、このアレフは大いなるアレフと呼ばれます。なぜなら、それは存在するのを望み、次のヘブライ文字であるベート(ב)を通じて、万物の原因として見られるからです。メラヘム レカナトは、この事について「それゆえ、あなたはベートの字が全てのことを行うのを見い出すであろう」と記しています。このようにして、アレフはこの文字を自らに最も近く、最も生産的なものとして受け入れ、その時にはアブ(אב)、「全ての生成と生産の父」と呼ばれます。

 ひとたびアレフがベートと結び付いたら、存在の世界へと再び送り込み、このベートの字は無限の「否定」(エイン אין)から、その限界を得るのを望みます。それゆえ、このエインの最後の文字のヌンの字(ן)と結び付いて、ベートは息子を意味するベン(בן)を生み出します。これは神の最初の生成であり、他者の始まりです。それゆえ、これは「始まり」と呼ばれます。無限からは2番目の流出であるものの、この第2のカバラのセフィラーを通じて万物は生み出されました。それゆえ、「あなたは知恵によって万物を生み出した」と記されています。このようにして、最初の流出は第2のセフィラーとなりました。なぜなら、生成の終わりはこの息子、子なる神だからです。

 そしてエイン(אין)のアレフ(א)とヌン(ן)の間にある、3つ目の文字「ヨッド(י)」が残っています。これは聖なる御名ヤー(יה)の印です。あなた方が、ベンの文字の間にヤーの2つの文字を入れるならば、「理解」や「洞察」を意味するビナーの言葉となり、これは神の第3の流出(セフィラー)です。これに割り当てられている属性は、主、霊、魂、祈り、信仰の神秘、息子らの母、恵みの王座に座る王、大いなるヨベルの年、大いなる安息日、霊的な基盤、奇跡的な光、最も明るい日、50の門、償いの日、内なる声、楽園エデンから流れる川、神聖四文字の2つ目の文字、悔い改め、深海、我が妹、我が父の娘などです。

 私はこれまで3つのセフィロトについて挙げましたが、ラビ イツハクの形成の書の注釈書によれば、これらはカバリストたちから「最も光あり上位のもの」とも、聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主なる神が座す御座とも呼ばれています。

 そして第4のセフィラーに属するものは愛の憐みであり、その神名の他にも、寛大さ、恵み、右腕、父祖アブラハム、東、高い海、神の銀、ミカエル、祭司、琥珀のハスマルとして現れた天使、白衣、南風なども関連しています。

 第5のセフィラーは厳格さが属しており、その神名は(形成の書で述べられているように)水から来るエロヒムです。また他にも、天地創造の4日目、西、ガブリエル、父祖イサク、夜、勇敢さ、黄金の祭壇、第2の食物、聖別、闇、メタトロン、北風、闇の見た目とも関連しています。

 第6のセフィラーと関連するものはエロハ、啓明させる思弁、命の木、喜び、中心線、書かれたトーラー、大祭司、日の出、紫色です。テダクス レヴィは、この場所から70の国々が大地へと広まり、ここは主の真理の印であり、平和と呼ばれ、その形は月に描かれていると記しています。その神秘は神聖四文字の3つ目の文字であり、この神秘は「天におられる我らの父」です。また他にも、天にいる人、あるいは天のアダム、裁き、意見、ミカエル、父祖イスラエル(ヤコブ)、ヤコブの神とも関連しています。

 第7のセフィラーは、万軍の主、足、足首、右の柱、大いなる輪、預言者のヴィジョン、モーセなどと関連づけられています。

 第8のセフィラーには、万軍の神、ボアズの柱や左足の神秘が集まり、ここから古き蛇、知のある主、支流、アロン、ケルブ、王の息子たち、研磨する碾臼などが来ています。

 第9のセフィラーには、シャダイ、世界の基盤、シオン、養魚池の源泉、公正さ、生ける神、完全な安息日、「保つ」と「思い起こす」の中間、レビアタンからの50日目、雄羊、義人ヨセフ、ソロモン王、正義、力、善悪の知識の木、主との契約、契約の弓、主の栄光、ダビデ王の預言の基盤、贖い、世々の魂と関連しています。

 第10のセフィラーには、主、王国、命、第2のケルブ、啓明させない思弁、後のもの、終わり、イスラエルの教会、雅歌にある花嫁、天の女王、乙女イスラエル、口承によるトーラーの神秘、鷲、神聖四文字の4つ目の文字、ダビデ王家の王国、王の神殿、神の扉、契約の聖櫃とその中にある2枚の石板、全地の主が来ています。

 あなた方は、これら神の10の性質、概念、あるいは属性についての、簡潔な内容を聞きました。これらはカバリストたちから「ベリマー(בלימה)」と呼ばれ、この言葉のベリを、一部の者らは「外側」や「超えたもの」として理解しており、マーは「それら」を意味し、「それらの10を超えたもの」と言うように使われており、これは「残された神のエッセンス」を意味しています。そのため、これらの人々は、通常はベリマーを「それを超えた、言葉では言い表せないもの」と解釈しています。一方で他の者らはこの言葉が、「あなたの舌を拘束して、話さないようにせよ」の文の「拘束」を意味するベロムから来ていると理解しています。なぜなら、聖なる言葉は冒涜的に話すべきではないからです。


 

  • 最終更新:2023-02-26 22:18:18

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