ギナト エゴーズ

 
ギナト エゴーズ
クルミの園

第1の書

ラビ ヨセフ ベン アブラハム ギカティラ著


警告

 聖なるトーラー、生ける神による生ける御言葉は、我々に「あなたがたは、私の聖なる名を汚してはならない」と命じている(レビ記 22章32節)。祝福あるハ=シェム (*1)との真の合一を説明するため、本書では必要かつ避けようも無く、その聖なる御名を記さざるを得ない。そのため、どのような形にせよ、それらの御名を汚す事の無いよう、神聖にして最大の配慮が必要となる。おそらくは、まさにこの理由から、本書はほとんど800年もの間、ハ=シェムの御前を進むごく少数の義人を除いては、隠され続けていたのであろう。

 だが今や、真実にして完全な救いの時代に我々は入っているので、本書を出版するのは我々の律法に適う行いにして義務である。「そうすれば、地のすべての民はハ=シェムが神であることと、他に神のないことを知るに至るであろう」(列王記上 8章60節)。だが同時に、その偉大にして神聖な御名を汚さないように、最大限の崇敬と配慮をしながら行うのは、我々の義務である。そのため、本書でハ=シェムの神名が書かれている箇所には、我々はそれらの文字の間に分離記号を置いて、これらは実際の神名そのものではないようにした (*2)

 加えて、本書の中でも詳しい説明があるが、ハ=シェムの神聖な御名は、どのような状況下においても発音されたりはしない。これについては、預言者アモスが「かの人はまた『声を出すな、ハ=シェムの名を唱えるな』と言うであろう」と述べている(アモス書 6章10節)。むしろ、「彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る」と言われるように(詩篇 91篇14節)、ハ=シェムを知り、その御名を知る事のみに努めるべきである。この詩篇の文では、「わが名を唱えるゆえに」や「わが名を使うゆえに」ではなく、「わが名を知るゆえに」と特定している。よく知られているように、十戒の中でハ=シェムが許さない唯一の罪は、その聖なる御名を空しい事のために唱える事だと我々に注意を与えている(出エジプト記 20章6節)。そのため、我々がここで読者に警告するのは、極めて重要である。

 そのため、本書の焦点はハ=シェムとその様々な御名のみであるので、最大限の敬意と共に、それらを大いに慎重に扱わなくてはならない。読者は本書を、汚したり、破いたり、トイレなどの不浄な場所へ置いたりしないように気を付けてほしい (*3)。何らかの理由で、読者が本書を捨てる必要があったとしたら、そのままゴミ箱へと捨てたりはせず、その代わりに、あなたの地域のオーソドックスなユダヤ教のシナゴーグに寄付してほしい。それにより、その価値を認めている他の人が読む事ができたり、トーラーの律法に定められたやり方で、敬意をもって処分されたりするだろう。

 反対に、本書を学習し、その大きな深遠さを黙想する人は、ハ=シェムからの豊富な祝福を確実に受けるであろう。これについて「聖なる方への黙想を長く行う人は、日々や年月の長い報酬があるであろう」と述べられている(タルムード Bavil, Brachot 13b)。

 我々の慎ましい献納である本書によってハ=シェムが喜ばれるのを見い出し、本書を明かし、これまでの隠された状態から解放するのが、真にして完全な救いへと導く最後の働きとなる事は、我々の真摯な望みと祈りである。「その時代には、飢餓も戦争も、妬みも争いも無いであろう。その時代には幸福が豊富にあり、全ての喜びが塵のように自由に得られるからである。そして世界全体の人々が行うのは、ハ=シェムを知る事のみとなろう。それゆえ、ユダヤ人は偉大な賢者たちとなり、預言者イザヤが『水が海をおおっているように、ハ=シェムを知る知識が地に満ちる』と述べるように(イザヤ書 11章9節)、隠された事柄を知り、自らの創造主の知識を人間の可能性の限界まで掴むであろう」(ミシュネー トーラー、Melachim u'Milchamot 12章5節)という時代が、完全に実現する事を願う。

 ユダヤ暦 5780年 シュバットの月 15日、 英訳者一同より


序説

 イェソド ハ=イェソドト ワ=アムド ハ=ホクモト(יסוד היסודות ועמוד החכמות) (*4)――「全ての基礎の基礎、全ての知恵の柱は、万物を存在させた原初の存在を知る事である。天地とその中間に存在する万物は、この方の真理からのみ存在するようになったのである。」ラムバム (*5)は、これらの言葉によって、このトーラーの律法の法典化の書を始めている。

 これは、全ての原理の中でも最も基礎的な原理である。それについて、ラムバムは「もしこの原初の本質的な存在が実際には存在しないという考えが浮かんだとしたら、あらゆる存在の可能性も無くなっていただろう」と述べている。

 それ以上に、我々が自らの存在に気づいている事実そのものが、この証拠となっている。全ての人々が知るように、我々の存在は時間と空間によって制限されているからである。言い方を変えると、我々は永遠に存在できず、その存在には限界がある。我々の存在する時間と空間があり、我々は永遠にも、無限にも生きていられない。これは我々人間に限らず、あらゆる被造物に当てはまる。時間や空間すらも永遠や無限ではなく、限界があり、それゆえ常に存在するとは限らない。時間には少なくとも始まりと終わりの2つの点があり、それらの間は計測ができ、限界がある。空間には少なくとも位置の2つの点が必要となり (*6)、それらの間も計測ができ、限界がある。言い方を変えると、時間と空間にも限界があり、それ自身による固有の存在ではなく、他のあらゆる被造物と同様に、永遠に存在は出来ない。すなわち時間と空間も含めた、世界の全てのものは、それ自体の固有の存在ではなく、自身では存在できない。だがにも関わらず、我々はここに存在している!

 さらに続いて、たとえ全ての他の存在が存在を止めたとしても、この原初の存在はなおも存在し続けるであろう。その存在は固有、無限、永遠だからである。それゆえ、その存在のみが唯一にして真の存在である。この存在は真に自立しており、他の全ての存在から独立しているからである。むしろ、他の全ては存在するために、この存在に拠っている。

 ラムバムは、これが「ハ=シェムこそ神であって、ほかに神のない」(申命記 4章35節)の意味の基盤であると述べている。言い方を変えると、「このハ=シェムの存在のように、真に存在する他の存在は無い。」この方のみが真に存在し、その存在は独立している。言い方を変えると、この方はこの世界を必要としない。反対に、我々の存在は、この方の存在に完全に拠っており、「あなたの慈しみはとこしえに堅く立ち」(詩篇 89篇2節)と述べられているように、我々が存在するのは、ただこの方の無限の慈しみによってである。

 ラムバムはさらに、この基礎的な真理の知識は、十戒の最初の肯定的な戒め、すなわち「私はハ=シェム、あなたの神である」(出エジプト記 20章2節)であると述べている。その次に、ハ=シェムの他に力が存在すると想定する者は、十戒の2番目である、「私の他に諸力(神々)は無い」の否定的な戒めに違反する事になる。ラムバムは、他の全ての基盤である、上記の基礎的な真理を否定する者は、全ての知恵の基礎的な柱、全ての原理の中でも主要にして最も含んでいるもの、トーラーの全ての命令を捨てると述べている。それゆえ、その者は自動的にハ=シェム以外に力を認めてはならないという、2番目の否定的な戒めに違反している。

 これらの2つの命令は、対称的であるのと同時に相互に拠っている。片方を受け入れるのは、もう片方を拒絶する事であり、逆もまた同様である。これはタルムードでも述べられており(Bavil Nedarim 25a, Chulin 4b, Sifi Parshat Re'eh)、ラムバムも、偶像崇拝の禁止の戒めについての解説(Hilchot Avoda Zarah 2:7)の中で、「偽りの諸力(神々)への崇拝の禁止の戒めは、『あなたがたが、もしあやまって、ハ=シェムがモーセに告げられたこのすべての戒めを行わず』と述べているように(民数記 15章22節)、全ての戒めと同等である」と述べている。口承での伝統では、この節は偽りの諸力(神々)に仕える事を意味していると教えている。そのため、偽りの力を認める者は、トーラー全体、預言者たちの書の全て、さらに次の節の「ハ=シェムがモーセによって戒めを与えられた日からこのかた、代々にわたり、あなたがたに命じられたすべての事を行わないとき」(民数記 15章23節)とあるように、アダム(最初の預言者)から世界の終わりまでの預言者に命じられた全てのものを拒否していると我々は学んでいる。一方で、偽りの諸力への崇拝を拒否する者は、トーラー全体、預言者たちの書の全て、アダムから世界の終わりまでの預言者たちに命ぜられた全てを認めている。これらの事は全ての戒めの基礎である。

 そして、この全ての基盤の中の主な基盤は、理解するのに容易であるが、この真理はよく誤解されており、様々な形で不正確に説明されているか、さらに悪い事に、単純にこじつけの説明がされている。だがこれは確実に、全ての知恵の柱にして、ハ=シェムのトーラーの基盤そのものであるので、その究極の深みと分枝を完全に理解するのは我々の義務である。

 この第1の戒めについて最初に述べるべき事は、ラムバムによって特定されており、単純に信仰のみではなく、知識(レイダ、知ること)の義務であると述べている(Hilchot Yesodei HaTorah 1:1)。言い方を変えると、ラムバムの言葉によると、十戒の第1の戒めを満たすのは、信仰の問題だけでは達成出来ずに、実際の知識が必要となる。この義務の源としてラムバムが引用している聖書の節により、これはさらに明確となっている。この節(申命記 4章35節)では「あなたにこの事を示したのは、ハ=シェムこそ神 (*7)であって、ほかに神のないことを知らせるためであった」と述べている。そのため、この必要な知識によって造られたものと、これが意味するもの、必要とするものとの区分を我々は理解しなくてはならない。

 ハ=シェムへのこの知識の重要性を、ラムバムは次の章でさらに明らかにしている。この章で、ハ=シェムへの愛と畏れの2つの戒めは、完全にこの知識に拠り、この知識は学習と黙想による思弁(ヒツボネヌト)によって得ると説明している。ラムバムは、以下の様に述べている。「聖書で『あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、ハ=シェムを愛さなければならない』と述べていたり(申命記 6章5節)、『あなたの神、ハ=シェムを恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない』とあるように(申命記 6章13節)、栄光ある、神聖な神を愛し、畏れるのは守るべき律法である。では、ハ=シェムを愛し、畏れる道とは何か? 人がその知恵について黙想 (*8)し、その驚異、その偉大な行いや創造、全ての比較を超えたその無限の知恵を認識する事により、愛、賞賛、栄光をハ=シェムに与え、ダヴィデ王が『わが魂は乾いているようにハ=シェムを慕い、生ける神を慕う』と述べたように(詩篇 42篇3節)、その偉大な御名を知るのを強く望むであろう。ダヴィデ王がこれらの事を反映していた時、『わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか』と述べるように(詩篇 8篇3-4節)、即座に崇敬と畏怖に震え、自らが小さく、低く、暗い生き物以外の何物でも無く、完全な知識を持つ方の御前で、薄っぺらで、限界のある知を持って立っていると考えた事だろう。」

 ラムバムは贖罪の法についての結論の部分で、この点をさらに強調して繰り返し、以下の様に述べている(Hilchot Teshuva 10:6)。「ハ=シェムへの愛は、心の中で常に満たされ、それ以外の万物に重要性を与えなくなるまでは、確立しないのはよく知られ、明白である。これは『あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、ハ=シェムを愛さなければならない』(申命記 6章5節)の戒めの中に暗に述べられている。そしてハ=シェムを知る知識を得てのみ、愛する事ができる。人の愛の性質は、その知識の性質に拠っている! 僅かな量の知識は、少ない愛を刺激する。多くの量の知識は、大きな愛を刺激する。そのため、ヒルホト イェソデイ ハ=トーラーで説明されているように、自らの創造主を知るための知恵と概念を、人が理解し黙想するためのポテンシャルに従って理解し黙想するためには、隠遁するのが不可欠である。」

 上記の引用から、ラムバムが指している、全てのトーラーの根本であり、全ての知恵の柱であるハ=シェムの知識は、ハ=シェムとその道への黙想を通じて得なくてはならない事が明白に理解できる。

 言い方を変えると、一般的な考えとは裏腹に、ラムバムのいう、この本質的な戒めを満たすための知識とは、他の「神々」に対する者として「神」と呼ばれる最初の存在を単に認めるだけではなく、それより遥かに多くのものである。むしろ、「自らの創造主を知るための」知恵と概念への理解と黙想を通じて、人の能力とキャパシティーに応じて、ハ=シェムの実際の知識を得る事である。

 これは、ラムバムの法典書の始めの基礎だけではなく、その結論でも同様であるのを見い出せる。メシア時代について述べている「王たちの法」の終わりの箇所で、ラムバムは以下の言葉によって結論している(Hilchot Melachim U'Milchamot 12:5)。「その時代には、飢餓も戦争も、妬みも争いも無いであろう。その時代には幸福が豊富にあり、全ての喜びが塵のように自由に得られるからである。そして世界全体の人々が行うのは、ハ=シェムを知る事のみとなろう。それゆえ、ユダヤ人は偉大な賢者たちとなり (*9)、預言者イザヤが『水が海をおおっているように、ハ=シェムを知る知識が地に満ちる』と述べるように(イザヤ書 11章9節)、隠された事柄を知り、自らの創造主の知識を人間の可能性の限界まで掴むであろう。」そのため、メシア時代でのハ=シェムの知識を得るのは、ラムバムが法典で強く述べているように、トーラーの律法の問題である。

 上記全てから、ハ=シェムの知識を得るのは、全ての基盤の中でも最も不可欠な基盤であり、全てのトーラーと律法の始めにして終わりであり、他の全て、特に真にして完全な救いは、これに拠っている事は明白に理解できる。

 そして、この知識をその深みまで理解するための説明に入る前に、上記の主張はラムバムに限らずに、全てのトーラーの真のユダヤ教の本質である事を指し示す必要がある。例えば、シュルハン アルーフ(ユダヤ法の法典)の始めの箇所は、創造主に意識を向けるための、似たような呼びかけで始まっている。その箇所は、このように始まっている(Orach Chayim 1:1)。「自らの創造主に仕えるために、朝に起きる時には獅子のように自らを強めるようにせよ。『私は常にハ=シェムを私の前に置く』(詩篇 16篇8節)。これはトーラーとハ=シェムの御前を歩む義人たちの徳の中の重要な原理である。例えるならば、人が座るやり方は、自らの家の中で独りでいる時の座り方、動き、作法は、王の御前にいる時の座り方、動き、作法と違うであろうし、自らの家族や親族の間では望むだけ自由な発言や表現をするが、王宮にいる時では違うであろうからだ。これら全ては、天の大王、祝福ある聖なる者、その栄光が地に満ちている方の前に立ち、『ハ=シェムは言われる。人は密かな所に身を隠して、私に見られないようにすることができようか?』(エレミヤ書 23章24節)とあるように、自らの動きを観察されている時には尚更である。この事を黙想したら、祝福あるハ=シェムを即座に畏れ、服従し、常に心に留めるであろう。ハ=シェムに仕える事で、人々が嘲ったとしても当惑してはならず、謙遜して歩むべきである。また自らが寝床に横たわる時には、自らが横たわる場所の前にいる方について知るようにし、眠りから起きる時には、自らの創造主(この方が祝福され、高められたまえ)に仕えるために、熱心に起き上がるようにせよ。」

 上記の文から、この戒めが求めるハ=シェムの知識とは、創造主を単に認めるだけではないのは明白である。むしろ、常にある存在、他の万物を常に存在させ、万物が完全に拠っているハ=シェムに、常なる認識を得るのを求められるのは明白である。それだけではなく、この知識を得るのは、全ての基盤、知恵、全てのトーラーの基盤であるのは明らかである。

 この重要性は、最も偉大な預言者モーセを始めとする全ての預言者たちの言葉には豊富にある。例えば「それゆえ、あなたは今日知って、心にとめなければならない。上は天、下は地において、ハ=シェムこそ神にいまし、ほかに神のないことを」と述べてあり(申命記 4章39節)、同様に「あなたにこの事を示したのは、ハ=シェムこそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった」とも述べている(申命記 4章35節)。またダヴィデ王が息子ソロモンへの別れの言葉は、「わが子ソロモンよ、あなたの父の神を知り、全き心をもって喜び勇んで彼に仕えなさい。ハ=シェムはすべての心を探り、すべての思いを悟られるからである。あなたがもし彼を求めるならば会うことができる。しかしあなたがもし彼を捨てるならば彼は長くあなたを捨てられるであろう」(歴代誌上 28章9節)であった。またエレミヤの哀歌でも、「ハ=シェムはおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵み深い」と述べている(哀歌 3章25節)。さらに預言者イザヤは「あなたがたはハ=シェムにお会いすることのできるうちに、ハ=シェムを尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と述べ(イザヤ書 55章6節)、預言者アモスは、「ハ=シェムはイスラエルの家にこう言われる。あなたがたは私を求めよ、そして生きよ」と述べている(アモス書 5章4節)。

 同様に、詩篇でもそのような文は豊富にある。例えば、「ハ=シェムは天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた」とあり(詩篇 14篇2節)、また同様に「ハ=シェムを求める者は良き物に欠けることはない」とある(詩篇 34篇10節)。申命記でモーセはイスラエルの民に「しかし、その所からあなたの神、ハ=シェムを求め、もし心をつくし、精神をつくして、ハ=シェムを求めるならば、あなたは彼に会うであろう」と教えている(申命記 4章29節)。預言者エレミヤも同様に、「ハ=シェムはこう言われる。知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしがハ=シェムであって、地に慈しみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、ハ=シェムは言われる」と述べている(エレミヤ書 9章23-24節)。同様に、「わたしは彼らにわたしがハ=シェムであることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる」とも述べている(エレミヤ書 24章7節)。

 逆もまた事実であり、聖書にはハ=シェムの知識が欠けた結果について、イスラエルの民に忠告する言葉に満ちている。イザヤ書は「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、ハ=シェムが次のように語られたから、『わたしは子を養い育てた、しかし彼らは私にそむいた。牛はその飼主を知り、ロバはその主人の馬草桶を知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は黙想しない (*10)』。ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らはハ=シェムを捨て、イスラエルの聖なる方をあなどり、これをうとんじ遠ざかった」(イザヤ書 1章2-4節)という強い言葉で始まっている。

 この預言者の言葉から、ハ=シェムへの黙想の欠如は、ハ=シェムの知識と気づきの欠如へと導くのは明らかである。それだけではなく、ハ=シェムの知識と気づきの軛をこのように投げ捨てる事は、それに続く全ての悪の直接的な原因である。ハ=シェムの気づきを忘れ、心を逸らせる (*11)事自体が、人に降りかかる全ての悪と災いの源だからである。それについて聖書では「多くの災いと悩みが彼らに臨むであろう。そこでその日、彼らは言うであろう、『これらの災いがわれわれに臨むのは、我々の神が我々のうちにおられないからではないか』」と述べている(申命記 31章17節)。それゆえ、ハ=シェムの気づきをもたらす黙想と知識は、先に引用したように、全ての善の源であり、その逆も同様なのは明らかである。

 モーセも同様に、以下の様に警告している(申命記 6章12-15節)。「その時、あなたは自ら慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出されたハ=シェムを忘れてはならない。あなたの神、ハ=シェムを恐れて、これに仕え、その名をさして誓わなければならない。あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、ハ=シェムはねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地の面からあなたを滅ぼし去られるであろう。」

 また我々は1日に2回、シェマ(聞け)の以下の言葉(申命記 11章13-28節)を読んでいる。「もし、今日あなたがたに命じる私の命令によく聞き従って、あなたがたの神、ハ=シェムを愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、私はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。これを破るならば、ハ=シェムはあなたがたに向かい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたはハ=シェムが賜わる良い地から、すみやかに滅び失せるであろう。」

 言い方を変えると、ハ=シェムを忘れたり、その気づきの欠如は、その後に起きる全ての悪の本質であり、一方でハ=シェムの知識と気づきは、先に述べたように、全ての善の本質である。この事について聖書では「すべての道でハ=シェムを認めよ、そうすれば、ハ=シェムはあなたの道をまっすぐにされる」と述べている(箴言 3章6節)。

 これら2つの対称的な状態、ハ=シェムの気づきと、その欠如の結果は、トーラーと預言者らの書全ての物語を通じて明らかである。すなわち、ユダヤ人がハ=シェムから心を離したら、彼らは最も悲惨な困難に出会い、一方で彼らがハ=シェムに心を向けたら、ハ=シェムは温和に報いている。

 似たようにタルムードの賢者たちも、このように述べている(Nedarim 41a)。「我々には、〈ハ=シェムの〉ダアト(知識)が欠けるよりも、悲惨な状態は無いという言い伝えがある。イスラエルの地では、この知識を持つ者は、全てを持つと言われている。この知識の無い者に、何があろうか? この知識を得たならば、何が欠けていようか? この知識を得ていなかったならば、これまで何を得ていただろうか?」同様に、他の箇所でもこう述べている(Ketuvot 68a)。「貧しいとは何を意味するのか? 〈ハ=シェムの〉ダアト(知識)が貧しい事である。富んでいるとは何を意味するのか? 〈ハ=シェムの〉ダアト(知識)に富んでいる事である。」

 この気づきと知識を得るのがどれだけ中心的で不可欠であるのか、上記の引用全てでも、読者がまだ納得していないならば、トーラーの明かされた側面から、我々はゾーハルの賢者たちの言葉、トーラーの隠された秘密へと向くとしよう。彼らはさらに強く、明白に述べており、天地創造の目的全体が「ハ=シェムを知るようにするため」だと述べている(ゾーハル 2巻42b)。また同様に、「祝福ある聖なる方を知るために努めない者は、創造されなかった方が、この者のためにも良かっただろう。まさにこの目的のために、祝福ある聖なる方は、人をこの世界に創り出したからである」とも述べている(ゾーハル 2巻161b) (*12)

 このように、ゾーハル、カバラー、ハシディズムの教えの全ての書には、このような意見に満ちている。加えて、別のものとして誤解される事が多いものの、トーラーの秘密全体は、ゾーハルでは「ラザ ドシェマ カディシャ(聖なる御名の秘密)」として概ね知られている。これにはハ=シェムの御名の説明も含まれ、ラムバムからはその大いなる御名の知識として引用されており、これを通じて人はハ=シェムを知るに至るであろう。

 上記の全てと、人類の最終的な救いは世界全体にハ=シェムの知識を広める事に拠っている事を心に留め、我々はこの驚異的な本書「ギナト エゴーズ(クルミの園)」を英訳し、翻案するプロジェクトに取り掛かった。ハ=シェムについて学び、その偉大な御名と聖なる称号を知りたいと真に望むならば、その御名の師、この知識の守護者とならなくてはならないからである。

 本書の著者、祝福ある義の記憶のあるラビ ヨセフ ギカティラは、ハ=シェムの知識の究極の師であった。ラビ ヨセフは、ラムバム(マイモニデス)が亡くなってからそう遠くない1248年に、旧カスティーリャ地方のメディナセリの町に生まれた。明らかにその大きな謙遜によって、自らを語りたがらなかったため、このラビについて知られている事は実に少ない。その家名のギカティラ(ジカティヤーやキカティヤーと発音する)は、スペイン語で小さな者を意味する言葉「Chiquitilla」が崩れたものである。ラビは自らの著名をする時には、「アブラハムの息子ヨセフ、小さな者(ハ=カタン。הקטן)」としていたからである。

 著者はまた、ラビ ヨセフ、奇跡を働く者としても知られていたが、我々はこのラビの人格については多くは知らない。我々がこの真の霊的巨人の偉業について知るのは、主にその著書からである。ラビ ヨセフ ギカティラの書を学んだ者は、その文体が自らを語り、著者の並ぶ者のない霊的な偉大さを示すのに気づくであろう。さらに全てのカバリストの中でも最も偉大なラビ イツハク ルーリア、聖なるアリも、このラビの主著「シャアレイ オラー(光の門)」を「カバラーの教え全ての根本的な鍵」と絶賛していた。このラビの著書は、当時の偉大な賢者たち全てに即座に受け入れられ、彼らはラビに従うようになった。著者の師である、その魂に平和があるラビ アブラハム アブラフィアも、著書「オツァル エデン ハ=ガヌズ(אוצר עדן הגנוז 隠されたエデンの宝)」の中で、この弟子の偉大な達成について証言している。

 事実、聖なる天使たちすらも、ラビ ヨセフ ギカティラとその著書の偉大さを証言している。ユダヤ法典「シュルハン アルーフ(שלחן ערוך)」の著者であるラビ ヨセフ カロは、有名な霊的対話の記録「マギッド メイシャリム(מגיד מישרים)」の中で、たびたび訪れてトーラーについて教えていた天使との対話を記している。そして何度かの機会には、この天使はラビ ヨセフ ギカティラの言葉の正しさを指し示し、このラビはヨセフを「我が選ばれた者」と呼び(Toldothの章など)、その著書はシュルハン アルーフの主なハラハー(ユダヤ法)の統合された部分として組み込まれている事を見い出していた。そのため、ラビ ヨセフ ギカティラの書は、普遍的な権威あるものとして受け入れられており、特にトーラーの神秘的な領域においてであったが、先に見てきたように、トーラーのユダヤ法の領域においても権威であった。

 本書ギナト エゴーズは、ほとんど800年前に書かれているが、現在に至るまで、1度のみ印刷されている。この少ない印刷版は、本書が最初に書かれた時代から数百年後に、その高名な著書「シュネイ ルホト ハ=ブリト(契約の2枚の石板)」の略称のSHaLaHとして一般に知られている、ラビ イシャヤー ホロウィッツによって印刷された。それ以来、本書は文書の形のみによって、大衆からは完全に隠され続け、少数の義人のみが所有してきた。

 このラビのより有名な著書「シャアレイ オラー」が、全てのカバラーの基盤にして鍵であるとするなら、本書「ギナト エゴーズ」は、その全ての基盤の中の基盤である。本書の中にラビ ヨセフは、トーラーの全ての信仰、格言と原理の基盤を明かし、読者に対して、どのようにして万物は、自らとその御名に祝福のあるハ=シェムとその単独の御名から来て、拠っているかを示しているからである。本書の中でラビは明白で忍耐強く読者を教育し、エデンの園の門へと温和に導いている。

 そして、ラビ ヨセフ ギカティラの書は、ラション ハ=コデシュ(聖なる言語。聖書ヘブライ語)で巧みで純粋に書かれており、その言葉の全ては乳と蜜のように流れると指し示す必要がある。それだけではなく、本書そのものが読者に、ラション ハ=コデシュ、聖なる言語の並ぶものなきユニークさを示すであろう。この言語によって、自らとその御名に祝福のあるハ=シェムは、世界を創造し、我々にその聖なるトーラーを与えたのである。

 そのため、その本質的な性質から、どのような翻訳も、オリジナルのテキストを正当に訳する事は出来ない事も理解できよう。究極的には、本書のような本の翻訳は、オリジナルの研究をまだ出来ない人のための、オリジナルの翻案にしかなれない。にも関わらず、ハ=シェムの助けにより、我々は著者の意図した意味合いを伝えるために全力を尽くし、必要ならば本書内の聖書ヘブライ語の言葉の音訳とその説明も含めて、著者の意図の深みまで明らかとなるようにした。

 これらを心に留めつつ、本書はあなた、親愛なる読者に非常に重要な示唆を与えるであろう。そしてあなたは、最大の利益を得るであろうし、それこそがこの聖なる書の意図である。そのため、本書を適切な順番で熱心に学び、いずれもスキップしてはならない。著者自身が述べているように、本書とそれが伝える知識は、最初が全ての基盤となり、その上に順番に建てられているからである。

 そのため、後の章の部分を理解するためには、先の章全てを完全に理解しなくてはならない事も理解できよう。例えるならば、基本的な算数の働きの知識をまず取得しなければ、代数学や微分は独学では学べないようなものであり、これは他のあらゆる知識においても同じ事が言えよう。これは究極の知識、ハ=シェムの知識においても確実である。

 そしてラビ ヨセフは、巧みで誠実な教師として、あなたに全てを説明するであろうと知るのだ。全ての重要な部分は、それらの適切な場所、順番で置かれ、明白で満足のいく説明があるからである。あなたがハ=シェムを知る意図を持ち、このガイダンスに従い、熱心かつ慎重に学ぶならば、この知識は確実にあなたの中に満たされるであろう。そして、あなたはハ=シェムを知り、その聖なる臨在を常に完全に気づき、エデンの楽園に生きたまま入り、散策するであろう。その時に人々があなたに「どうやって、そこに入れたのですか?」と尋ねるならば、あなたは「ラビ ヨセフ ギカティラのおかげです」と答えるだろう。

 

  • 最終更新:2023-12-21 13:02:19

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