シャアレイ オラー 2-3

 
 21. この根源は神秘を見ており、「私はそのかたわらにあって、名匠(אמון アモン)となる」(箴言 8章30節)ので、これは信仰(אמון エムン)、職人(אומן ウマン)、アメンの神秘でもあり、良きものや誓いの神秘でもある。それゆえ、全ての7つ〈のセフィロト〉はこの7番目と結び付いており、これは7つの総合であり、誓い (*1)の神秘でもある。そして、これら7つのセフィロトからの祝福された方を除いては、この存在する世界に創造の場はないことを知り、信じるのだ。そして人が誓いで嘘をついた時、見よ、全ての7つのセフィロトから彼は切り離され、天と地の源は彼には残されず、この偽りの誓いについて「(ハ=シェムの名によって偽り誓う者の家に入り)その家の中に宿って、これをその木と石と共に滅ぼす」(ゼカリヤ書 5章4節)と述べられており、幹から枝まで全てを引き裂くのである。そして我が息子よ、今これを聞き、どれだけ誓いと行いの事柄があるかを観察するのだ。なぜなら、あなたが天に対して偽りの誓いをしたら、たとえ何も言わなかったとしても、偽りの誓いの全てへの懲罰があるが、ハ=シェムは我らを懲罰から救い、我らに許しを与え、我らのそのような行いの全てを許すのである。

 そして誓いは祝福された方の御名にある10のセフィロトの中の7つのセフィロトの神秘であるので、トーラーではハ=シェムの「その名をさして誓わなければならない」(申命記 10章20節)と我々は述べている。この御名に全ては拠っているからである。そして全ての「地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う」(イザヤ書 65章16節)。それゆえ、祝福された記憶のある我々の賢者たちは、誓いは王(神)自身を満足させると述べている。そして誓いの神秘は、「(知恵は自分の家を建て)その七つの柱を立て」(箴言 9章1節)の節で述べられているように、7つ〈のセフィロト〉に含まれている。また他にも、「イサクはそれをシバと名づけた。これによってその町の名は今日にいたるまでベエルシバといわれている」(創世記 26章33節)や、「これによってその所をベエルシバと名づけた。彼らが二人そこで誓いをしたからである」(創世記 21章31節)とも書かれている。そしてこの属性はトーラーでは、法の言葉と呼ばれており、今や私はこの事について、あなたの目を輝かせた。そして祝福に祝福あるハ=シェムは、全ての被造物を定め、その境界を造り、その大いなる御名により起き上がらせ、この世の全ての被造物に終わりと境界を与えると知るのだ。

 そして全ての高い被造物も、低い被造物も終わりと境界を持つが、この大いなる御名には終わりも境界もなく、それについては「人は暗やみを破り、いやはてまでも尋ねきわめて、暗やみおよび暗黒の中から鉱石を取る」(ヨブ記 28章3節)や、「私はすべての全きことに限りあることを見ました。しかしあなたの戒めは限りなく広いのです」(詩篇 119篇92節)と述べられている。そしてこの節は、このような意味である。すなわち、被造物全てには境界と終わりがあるが、大いなる御名からの第10のセフィラーの神秘である戒め(ミツワー)と呼ばれる属性は例外であり、それは下から上へ向かっての第1〈のセフィラー〉で、上から下へ向かっての最後であり、戒めと呼ばれており、その広さは膨大であるので境界を持たず、全ての被造物の外側にあり、それらに比率と戒めと呼ばれる味わいを与える。なぜなら、万物は祝福あるハ=シェムにより、この世で戒めにどれだけ従ったかに応じて、その側で救われるからである。そしてこれはトーラーと戒めの神秘である。トーラーは書かれた教えであり、戒めは口で述べられた教えである。我々が持つ書かれたトーラーには、戒めと呼ばれるアドナイの命令があるので、口で述べられたトーラーとも呼ばれる。それゆえ、書かれたトーラーに対して、我々が見る全ての境界は、この広大な戒めで終わると言われる。

 そして形成の書によると、祝福あるハ=シェムは創造の行いで、これら全てを宣言しており、これら全てはエル ハイを通じたアドナイにより宣言されたことを知り理解せよ。そしてこれら2つは全ての被造物に終わりと境界を与える御名であり、その外側に存在するものや、それらの働きをするものは無いと知るのだ。そしてこれら全ては、エル ハイとアドナイの法の言葉の中に含まれており、それらの中に全ての被造物は刻まれ、含まれており、その境界の外側へは出ない。そしてこれは、詩篇の「諸々の天からハ=シェムを褒め称えよ」(詩篇 148篇1節)で示されている神秘であり、高きところも低きところも全ての被造物が述べ、その御名を称える時、ハ=シェムは永遠に世界に自らの法を命じ、造り、置き、動かさないであろう。そしてこれは、「天と地の掟」(エレミヤ書 33章25節)と述べられている。そして祝福された我々の賢者たちは、この白い祝福について、「この節では天を造り、全ての法の軍勢をより拡張し、その役割のない者に配置を与えることを意味している」と述べている。また「太陽を与えて昼の光とし、月と星とを定めて夜の光とし」(エレミヤ書 31章35節)とも述べられている。これは昼と夜の属性の神秘で、昼と夜の境界を定めることを意味している。また「ハ=シェムは言われる、あなたがたは私を恐れないのか、私の前におののかないのか。私は砂を置いて海の境とし、これを永遠の限界として、越えることができないようにした。波はさかまいても、勝つことはできない、鳴りわたっても、これを越えることはできない」(エレミヤ書 5章22節)や、「あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、再び地をおおうことのないようにされた」(詩篇 104篇9節)と述べられている。それゆえ、法の言葉であなたが見い出すであろう全ての場所で、広がりや期間で境界がある。それゆえ「祭司にはファラオの給与があって、それで食べていて」(創世記 47章22節)や、「なくてならぬ食物で私を養ってください」(箴言 30章8節)と言われている。

 22. そして全ての被造物は、これら2つのセフィロトにより種や境界が定められているので、祝福に祝福あるハ=シェムはトーラーで定めの言葉や掟の言葉として知られる印を置き、あなたが定めの言葉で見い出すあらゆる箇所は、エル ハイの属性である。それゆえ常に重要で、3番目に書かれているものであり、形成の書でも「定めの言葉は常に重要である。なぜなら、この言葉は体の全ての部分の中心である」と述べられ、それゆえ定めと呼ばれ、エル ハイの属性が定めと呼ばれるからである。そしてこれは、「新月と満月と我らの祭の日とにラッパを吹きならせ。これはイスラエルの定め、ヤコブのエロヒム(神)の掟である」(詩篇 81篇3-4節)の節の神秘である。そして「我らはその生を覚えている」の神秘とし、それゆえ「イスラエルの定め、ヤコブのエロヒムの掟である」ゆえに、覚えておくべき日について私が述べたことを称えるようにせよ。この定めは栄光の神秘、ヤコブの神秘、6つの〈セフィロトの〉御名の神秘であり、掟はヤコブの神秘である定めの神秘の、6つの下に定められたものであることを知るのだ。そして、この御名の中の小さなヨドと呼ばれる、上に定められた点への我らの記憶を称えよ。それゆえ、「イスラエルの定め、ヤコブのエロヒムの掟」と述べられており、「その所でハ=シェムは民のために定めと掟を立てられ」(出エジプト記 15章25節)と書かれている。

 そしてエル ハイである定め、覚えておくべき日から、このヨッドの日に人は裁きを集め、それゆえ、あなたはトーラーの中に、この定めの徴、服従の徴である命令を多く見い出すであろうことを知るのだ。そしてこの神秘の中に、以下のものがある。律法であなたが見い出せる全ての箇所に、定めの言葉はあり、その徴は律法と同じであって、エジプトの過越しについて「あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない」(出エジプト記 12章24節)で述べているように、定めの神秘であるエル ハイと結び付いている。そのため、あなたが定めを見い出せるであろう全ての箇所は、エル ハイの属性から発されるのである。そしてこの祝福により、言葉の契約はエル ハイの属性の神秘である。それゆえ、あなたが子宮にいた時から共にあった聖なる方であり、骨肉を定め、聖なる結び付きによりその誕生を定めたハ=シェムをあなたは称えるようにせよ。

 そして我々が見い出す定めの全ての箇所は、アドナイの御名と結びつく律法の徴であり、それゆえ「あなたはこの定めを年々その期節に守らなければならない」(出エジプト記 13章10節)のであり、これは「律法の定め」(民数記 19章2節)であって、全てはここから来ているのである。そして定めと掟の言葉は、エル ハイとアドナイの徴であり、それらは昼の属性と夜の属性、覚えておくことと守るべきことであり、万物はそれらから発されることを見い出せる。そしてあなたがトーラーで見い出せる全ての定めは、「正しい定めと掟」(申命記 4章8節)と述べられているように、定めの徴であると知るべきである。そして全ての箇所であなたが見い出せる定めは、「もしあなた方が私の定めに歩み、私の戒めを守って」(レビ記 26章3節)と述べられているように、定めの徴である。まことに多くの言葉の全ての箇所から、定めの言葉を思い起こさせ、それらにはエル ハイとアドナイも含まれ、それゆえ定めを思い起こさせる箇所には、これら2つの属性も含まれている。もしそうならば、定めと掟には何の違いがあるのか? 定めとはまず第1にエル ハイの神秘であり、その中の上から下へとアドナイがあり、一方で掟とはまず第1にアドナイの神秘であり、その中の下から上へとエル ハイがあることを知るのだ。この大いなる違いを見るようにせよ。

 23. そして、私が先に述べたことの他にも、定めと掟と呼ばれる律法の部分について、更に説明する必要がある。定めの言葉とは物事の定め、計測、境界の神秘であり、この境界の外側へと行けないことを、私は先に述べた。そのため、これらの律法全ては定めや掟と呼ばれ、それらの律法は〈境界の外側では〉止まり、大いに消え去る。そして、定めの言葉としてトーラーが放たれ、それらは我々を清め、我々が自らで判断したものの反映ではなく、我々は反映の境界である定めとそこにある考えを守り、その考えと反映の外側へは出ない。それゆえ、それらは定めと呼ばれるのである。そして先に述べたように、タルムードの祝福された記憶のある賢者たちは、このように述べている。この世界で掟を非難する者らや、それに背く国々に対して、掟を保つようにせよ。豚肉を食べることに対して、羊毛と亜麻を織りまぜて作られた服を着ることに対して、兄嫁を犯すことに対して、混血を育てることに対して、石打の刑を避けることに対して、家畜の首を切ることに対して、皮膚病患者を水で清めることといった事をである。

 では、私が挙げたこれらの事に対して、〈過去の賢者たちは〉どう述べているだろうか? トーラーでは、「私は定めをなすハ=シェムであり、それらの事柄であなたには自らで判断する余地はない」と述べている。そしてこれは、「私の掟を行い、私の定めを守り、それに歩まなければならない。私はあなたがたの神、ハ=シェムである」(レビ記 18章4節)の節の神秘である。それゆえ、トーラーであなたが見い出せるであろう、全ての定めや掟の言葉の箇所は、受け入れて保つ価値あるものの神秘であり、それらの律法には自らで判断する余地はなく、あなたが得る境界の外側へ出てもいけない。そして定めと呼ばれる律法は法において深いので、これは「あなたがたは、私の定めを守らなければならない」(レビ記 19章19節)の節の神秘である。エジプトの過越しの箇所の「また一束のヒソップを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない」(出エジプト記 12章22節)で見い出せるように、「あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない」(同 12章24節)と述べられている。それゆえ、混ぜ合わせたり織りなしてはならない定めも命じられており、「あなたがたは私の定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない」(レビ記 19章19節)と我々は述べ、山羊を混ぜることもそうであり、「これはあなたがたが永久に守るべき定めである」(同 16章29節)。それゆえ、純粋な赤い雄牛〈を生贄に連れて来るの〉も「律法の定め」(民数記 19章2節)である。

 そして、これらの定めの言葉を見るならば、その全ては大いなる御名の中に立てられており、この方は人に律法として知られる境界、定めとして知られるその深淵を与え、我々にそれらを保つように述べ、それらの反映ではなく、その達成の境界の外側へと向かうことも禁じ、それゆえ「口を通じて反映されたものは来るのであり、それらは加えるものではなく、それは大海を口を通じて飲み込むと言うようなものである」と言われている。そして定めと呼ばれる、律法についての宗教や思考の反映の法もそうである。そしてこれは割礼の契約の神秘であり、定めの神秘、エル ハイの神秘において、これから隠されたり消えているものがあるので、契約の祝福では「汝、ハ=シェム、我らの神にして世界の王、その内奥より聖なる者、定めを置き、〈イスラエルの〉息子らに契約を結び付けた者に祝福がありますように」と定められている。そしてこれは「その所でハ=シェムは民のために定めと掟を立てられ、彼らを試みて」(出エジプト記 15章25節)の節の内なる神秘である。そしてトーラーにある全ての箇所にある、エル ハイの神秘である定めの言葉は、道であると見い出せるので、それらはまことにアドナイの神秘でもある。そして今、あなたの目を開き、隠され消えていたものを露に見るのだ。人はトーラーにある、それら全ての箇所を見る必要があるからである。

 24. そして時には、トーラーでこの属性はラション ハル(山の言葉)とも呼ばれ、私はそれについて詳しく説明する必要がある。トーラーでは山という言葉には、多くのものを暗に述べていることを知るのだ。そして、その傾向がある場所を指して、山や山脈という言葉を述べていることを、あなたは知る必要がある。また、エル ハイと呼ばれるこの属性は、トーラーではシオンの山とも呼ばれ、同様にアドナイの属性はモリヤの山と呼ばれ、エサウの山はイスラエルを告発する属性であることを知るのだ。そして私はこの事を詳しく説明し、あなたの目を照らすとしよう。〈トーラーの〉全ての箇所にあるシオンの山とは、エル ハイの神秘であるイェソドの属性であることを知るのだ。シオンの山は世界を創造する最初の属性から来た場所なので、「エロヒム(神)は麗しさの極みであるシオンから光を放たれる」(詩篇 50篇2節)と述べられている。だがアドナイこそが被造物に最も近い、第1の門の家ではなかったろうか? それについては、エル ハイであるシオンの山に豊富にある高貴さ(アツィルト)の産物が無ければ、エルサレムであるモリヤの山でアドナイと呼ばれる存在は、そのアドナイという言葉をなすことが出来ないことを知るのだ。

 そして私が先に述べたように、アドナイの全ての行いは、エル ハイの属性から来ているので、シオンの山にあるものもエル ハイの神秘で、モリヤの山はアドナイの神秘で、またエルサレムの神秘である。そして祝福ある聖なる方は、「エルサレムに住まわれる主は、シオンから褒め称えられるべきである」(詩篇 135篇21節)の節で述べられているように、エルサレムのシオンの山のそばに住み、そこから良きものを与えるのである。この節の意味は、シオンの場所、シオンのそばで、エルサレムに住むということである。そして、エルサレムに祝福を注ぐ時には、「またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これはハ=シェム(יהוה)がかしこに祝福を命じ、永久に命を与えられたからである」(詩篇 133篇3節)と述べられているように、このシオンからのみ祝福が来るのである。またシオンの山々とは、ネツァフ(勝利)とホド(威光)のことであり、そこから良き露がシオンへと注がれ、さらにそこからエルサレムへと降りて来るのである。そしてこれは、ケルビムが熊の毛皮から油を圧搾するのに何年もかかるという諺の神秘である。そして、これらの山々から銅山は掘り取られているのであり、この神秘により「その地の石は鉄であって、その山からは銅を掘り取ることができる」(申命記 8章9節)のであり、そこには土の裁きの属性があり、「その山は銅の山」(ザカリヤ書 6章1節)がある。それゆえ、シオンの山とはエル ハイの神秘であり、モリヤの山はその神殿とエルサレム全般の神秘であり、エサウの山は外側から左側(悪)に結び付いていることを知るのだ。そしてこれは、「ハ=シェムは世々アマレク人と戦われる」(出エジプト記 17章16節)の節の神秘である。エドムの王たちへの主の裁きがなされるまで、彼らはシオンの山の神殿や、モリヤの山の祭壇を建てるのを防いでいたからである。

 何時それらがなされたのか? それは、シオンの山々が復讐の衣を着る時であり、それらはハ=シェム(יהוה) ツヴァオト(全能の主)、エロヒム ツヴァオト(全能の神)と呼ばれ、シオンの山に座する。それらはモシイーム(救う者)とも、ハ=シェム エロヒム ツヴァオトとも呼ばれ、「こうして救う者はシオンの山に上って、エサウの山を治める」(オバデヤ書 1章21節)の節の神秘である。これらの救う者とは、シオンの山にいるハ=シェム エロヒム ツヴァオト、すなわちエル ハイであり、エサウの山を治める者とは、エサウの息子のアマレク人であり、ハ=シェムは彼に戦っている。彼はシオンの山に対して告発しており、その名はサマエル(死と告発の天使)と呼ばれ、平和の契約の側から放たれた、エサウに属する者である。これらの節で書かれ、過去にあったことは、ハ=シェムの王権(メルハー)のことであり、これは王国(マルフート)の神秘であり、モリヤの山、エルサレム、アドナイの神秘である。

 25. そして、エルサレム、シェキナー、マルフートの神秘である、アドナイの統治下には、アドナイの御座と呼ばれ、アララト山脈とも名付けられている、4つの軍営があり、それらは〈馬として〉メルカバーの御座を運ぶことを知るのだ。そしてこれについて、「終りの日に次のことが起る。ハ=シェムの家の山は、諸々の山のかしらとして堅く立ち」(イザヤ書 2章2節)と我々は述べており、これは4つの軍営のかしらという意味である。そしてこれは、「すべて世におるもの、地に住むものよ、山の上に旗の立つときは見よ、ラッパの鳴りひびくときは聞け」(同書 18章3節)の節の神秘であり、この時にはアドナイの側に立ち、これはモーセがアマレク人との戦いにおいて、我々と平和とを結びつけた祭壇の神秘であり、これら4つの軍営の4匹の生き物は、やがては知られている諸々の山のかしらとして旗を立てるであろう。さらに、これらの他にも、どれだけ多くの山々があるのか、どれほどの大きさ、広がりがあるのか、外側にどれだけ多くの山々があるのかも知るのだ。そして、アドナイの神秘であるモリヤの山を万物は取り巻いており、これは「王妃は六十人、側女は八十人、また数しれぬ乙女がいる。我が側には、わが全き者はただ一人」(雅歌 6章8-9節)の節の神秘である。そしてこれについて、「山々がエルサレムを囲んでいるように、ハ=シェム(יהוה)は今からとこしえにその民を囲まれる」(詩篇 125篇2節)と我々は述べている。

 そして、これらのエルサレムを囲んでいる山々は、ネシェフの山々などとも呼ばれ、イスラエル〈の民〉がシオンの山の外側へと向かい、ネシェフの山々の麓と向き合うならば、シオンの山とモリヤの山を除いては、そこにはイスラエルの基盤も立つ場所も無いことを知るのだ。その根源はイスラエルの祝福あるハ=シェムと言われるので、この方はエサウにセイル山を遺産として与えた。そして、このセイル山は不浄の地であり、そこには淫行する山羊のような生き物ら (*2)が住み、「山羊のような生き物らはその友を呼び」(イザヤ書 34章14節)と言われることを理解せよ。これらの山羊のようなものは「兄エサウは毛深い」(創世記 27章11節)と述べられている者らであり、「これらの淫らな神に、再び犠牲をささげてはならない」(レビ記 17章7節)と警告されている。そしてエサウはこの地の近くの、淫らな山羊のような生き物の状態を部分的に受け取ったと知るであろう。また、それについて、「この地の住民ホリびとセイル(山羊)の子」(創世記 36章20節)と述べられており、それゆえ我々はエサウが「兄弟ヤコブを離れてほかの地へ行った」(同書 6節)と述べており、彼について「見よ、私はあなたを国々のうちで小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる」(オバデヤ書 1章2節)とも述べられている。そして〈特定の〉国々で休むならば、高き平和があり、それについて我々は「私は今帰っていって、ペルシャの君と戦おうとしている」(ダニエル書 10章20節)と述べており、このように7つの国々があり、イシュマエルには20の国々の君主がいて、まことにエサウは、それら全ての中でも特に卑しめられている山羊のような生き物に割り当てられ、所有したのであり、それゆえ山羊と呼ばれ、「エサウにはセイルの山地を与えて、所有とさせたが」(ヨシュア記 24章4節)と述べられている。

 そしてエドムについて述べられていることは、「たといあなたは、鷲のように高くあがり」(オバデヤ書 1章4節)であり、彼らはサマエルと呼ばれる頭を持ち、この者は山羊のような生き物らに力を与えるので、その周囲に休息しているが、世界の70人いる君主らは、そこに立つ事はない。それゆえ、「ハ=シェム(יהוה)は世々アマレクびとと戦われる」(出エジプト記 17章16節)と述べられており、この「世々」の神秘は、「ハ=シェムよ、あなたの名声は世々に及ぶ」(詩篇 135篇13節)や、「これは世々の私の呼び名である」(出エジプト記 3章15節)の神秘でもある。そして彼(エドムの頭)はイスラエルの面前で天を告発する者サタンであり、悪しきサマエルである。そして救う者に対立しており、このサマエルについて〈聖書では〉何と書かれているか? 「たといあなたは、鷲のように高くあがり、星の間に巣を設けても、私はそこからあなたを引きおろすとハ=シェム(יהוה)は言われる」(オバデヤ書 1章4節)である。では、どのように引き下ろすのか? ハ=シェム エロヒム ツヴァオトと呼ばれる救う者らは、エル ハイの神秘であるシオンの山である上にあり、セイルの山とも呼ばれるエサウの山を裁いており、「ハ=シェム(יהוה)は天において、天の軍勢を罰し、地の上で、地の諸々の王を罰せられる」(イザヤ書 24章21節)のであり、それから「私の剣は天において憤りをもって酔った」(同書 34章5節)ことで、「見よ、これはエドムの上にくだり」(同節)とあり、その結果、何が書かれているのか? 「このエドムから来る者、深紅の衣を着て、ボズラから来る者はだれか」と、その次の「義をもって語り、救いを施す力ある私がそれだ」(同書 63章1節)であり、これは「こうして救う者はシオンの山に上って」(オバデヤ書 1章21節)の節を神秘としている。

 そしてシオンの山はエル ハイとも呼ばれると言われるので、シオンの山とモリヤの山とは繋がりがあり、これは「それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお『ハ=シェムの山に備えあり』と言う」(創世記 22章14節)の節の神秘である。そしてモリヤの山はアツィルト(高貴さ)のそばにあり、シオンの山はその祝福に満ちている。それゆえ、「あなたがこの事をしたので、私は大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫を増やして、多くの祝福を与える」(創世記 22章16-18節より)と述べられている。それゆえ、「ハ=シェムの山にある者」と、あなたがトーラーで見い出すであろう全ての箇所は、エルサレムと繋がっているシオンの神秘であり、一方で「ハ=シェムの家の山」とはモリヤの山と、その繋がりがあるエルサレムの神秘である。

 26. そして時には、この属性はシオンと呼ばれ、このシオンとエルサレムの意図は、エル ハイとアドナイ、すなわち、思い起こすことと保つことの神秘である。そして9つのセフィロトの末端であるシオンから、上から10番目のセフィラーの神秘である、エルサレムに住まわれる御名が放たれており、それについては「エルサレムに住まわれるハ=シェム(יהוה)は、シオンから褒め称えるべきである」(詩篇 135篇21節)とも、「またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これはハ=シェム(יהוה)がかしこからエルサレムと全世界に祝福を命じたからである」(同書 133篇3節に似ている)とも述べられている。先に述べたように、エル ハイは上から下へのセフィロトの9番目であり、アドナイに祝福を注ぎ、それゆえ、この世界に生きる正しい者たちにも与え、こうして祝福に祝福あるハ=シェムは、祝福を下の世界へと降ろすのである。だが、誰によってであるか? それは、シオンによってである。それゆえ、シオンからエロヒム(神)の全ての輝きが放たれると言われる。そしてエロヒムがイスラエルを守らないならば、何と書かれているのか? 「正しい者は災の前に取り去られる」(イザヤ書 57章1節)であり、ここでいう正しい者とは正義(ディン)の属性のことである。それゆえ、「正しい者は永久に堅く立てられる」(箴言 10章25節)や、「シオンからエロヒムは全ての輝きを放たれる」と述べられている。そして正しい属性が集められ、シオンの山に欠けたならば、シオンの山からエル ハイが取り去られることについて、何が記されているのか? それは「シオンの山は荒れはて、山犬がその上を歩いている」(哀歌 5章18節)と記されている。その上を歩いている山犬とは誰か? それは不浄の諸力のことであり、ブドウ園を荒らす小さな山犬と呼ばれている。では、このブドウ園とは誰か? ハ=シェム ツヴァオトのブドウ園のことである。まことに来るべきものについては、何が書かれているのか? 「そして、シオンの山でエサウの山を支配するための救い主らが起き上がり、それはハ=シェムの王国となる」と述べられている。

 こうして、エルサレムとシオンは一つに結び付く。なぜなら、エルサレムは〈神の〉王国の都、すなわち「ハ=シェムの王国となる」からである。これは「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ」(ゼカリヤ書 9章9節)の節の神秘である。さらにセフィロトを修復することについて、何と書かれているのか? 「アッスリヤの地にある失われた者と、エジプトの地に追いやられた者とが来て、エルサレムの聖山でハ=シェム(יהוה)を拝む」(イザヤ書 27章13節)である。この聖山とはシオンの山のことであり、エルサレムは王国の山のことである。そして、この神秘について、祝福された記憶のある我々の賢者たちは、「ここで『失われた正しい者』と述べられている、失われた者とは誰のことであり、何が失われたのか? それは、失われたのは正しい者である」と示唆している。それゆえ、「失われた者が来て」とは、正しい者がその義を失っていて、その義は正しい者を失っているのであり、これが「失われた者が来て」であり、失われた者とのみでは言われておらず、正しい者と義はエルサレムの聖山に呼ばれるのである。そして、その要点はテフィラーの祈りに見い出せるので、シオンにシェキナーが帰還するのであり、これが「その主を失った者の帰還に祝福あれ」と言われることの神秘である。

 27. そして、これらの主要なことを知った後には、この属性は父祖の属性となり、これら3人の父祖は全て、万物の前、メルカバーに割り当てられている物の前に来ることを知るのだ。そしてこの属性の中には、上の9つのセフィロトから来る、全ての豊富さ、高貴さ(アツィルト)の類も含まれており、それゆえコル(全て)という言葉で呼ばれている。この属性は上位の全てのセフィロトと万物とを結び付いているので、それらをアドナイと呼ばれる御名の中にもたらすと理解するようにせよ。万物はこのコル(全て)と呼ばれる属性に拠っているからである。また時には、アドナイである10番目の属性とも呼ばれており、全ての言葉はこの属性の御名と関連しており、「私はハ=シェム(יהוה)である。私は万物を造り、ただ私だけが天をのべ、地をひらき」(イザヤ書 44章24節)と我々が述べることの神秘である。ここでは、この属性が天と地、さらに上と下の万軍を形作っており、「こうして、天と地が完成した」(創世記 2章1節)の節の神秘であって、これは「全て」という言葉の能力である。これは大いなる神秘であり、この安息日は全ての基盤であって、思い起こすことと保つことの2つの神秘の属性を含んでおり、天と地を形作った「エロヒム(神)は第七日にその作業を終えられた」(同書 2章2節)の節の神秘である。

 そして、〈アブラハム、イサク、ヤコブの〉3人の父祖も、思い起こすことと保つことの神秘により、全てであるこの属性を受け継いでいる。アブラハムについては、「ハ=シェム(יהוה)は全ての事にアブラハムを恵まれた」(同書 24章1節)と記されている。イサクについては、「私はあなたが来る前に、みんな食べて彼を祝福した」(同書 27章33節)と記されている。ヤコブについては、「エロヒムが私を恵まれたので、私は全て(コル)を持っています」(同書 33章11節)と記されている。そしてこれについて、平和と共にあるダビデ王は「それゆえ私は、あなたの全ての諭しに従って、正しき道に歩み」(詩篇 119篇128節)と述べている。

 私が先に述べたように、この属性はビナーに接する下から7番目のセフィラーなので、ビナー(理解)のセフィラーは50の門を持ち、これら50の門からエル ハイが養われ、ゆえに「全て」の言葉と呼ばれている。それらから全てが流れてくるからである。それゆえ、ゲマトリアではコル(כל)には50の値があり(20 + 30)、コルは被造物にある道であり、ビナー(理解)の50の門から来ているからである。そして全ての被造物の印はコルであり、「エロヒム(神)が造った全て(コル)の物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記 1章31節)の節の大いなる神秘であり、私が先に述べたように、この属性はコルと呼ばれている。そして私はその微細な内容については先に挙げている。この属性の中で思い起こすことと保つこととは繋がっており、それゆえコルに世界の全てが満たされ、完成していることを知るのだ。そして、これは「エロヒム(神)のなされることは皆(コル)その時にかなって美しい」(伝道の書 3章11節)の節の神秘であり、思い起こす属性は「コル」の神秘で呼ばれ、保つ属性は「かなって」と呼ばれている。そして思い起こしたり保つ時には、コルの神秘とかなう事の神秘の中で、これらは一つに結び付くのであり、それゆえ「皆その時にかなって美しい」と述べられている。そしてこれは、〈天地創造の〉6日間の神秘である。

 28. そして時には良きものが、時には悪しきものがあることを知るのだ。それは平和の神秘であると既に明かしており、「生るるに時があり」(伝道の書 3章2節)と述べられている。そして良い時や悪い時といったようなものもあり、祝福された記憶のある我々の賢者たちが幾つかの部分を求める時もあり、私はその神秘について、あなたに説明するとしよう。アドナイの属性は時とも呼ばれ、それが義と繋がっている時には、良きものと呼ばれ、よって「良い時」であり、それゆえに良きものが時と結びつくことを知るのだ。そして、良き寛容と平和が引き離されたならば、悪と呼ばれるセフィロトの外側に住むものと繋がる時があり、これらは「善悪を知る木」である。そして善悪を知る木を先に解釈したように、このように呼ばれる属性は、アドナイの属性である。そして全ては堅固な正義と真実の裁きに従っており、それについて平和と共にあるソロモン王は伝道の書の最後で、「エロヒム(神)はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともに裁かれる」(同書 12章14節)と明かし、述べている。

 そしてこの道は賢者のものなので、人は良きものの祝福のように、悪しきものへの祝福も必要としている。そしてこれは、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい」(レビ記 16章2節)と述べられていることの神秘である。なぜ行ってはならないのか? これは言い方を変えると、悪である全ての時、悪と呼ばれる時との繋がりがあるからである。あるいは、この時は不浄と呼ばれる外側の時だからであろう。ヴェールの外側には何と多くの外側のものがあり、それら全ては災厄を呼ぶことを思えば、一般に「贖罪所の前に行かぬようにさせなさい」と言われる所以である。では誰が入るのに適しているのか? これ(ゾット)と呼ばれる属性において、「アロンのみが聖所に入らなくてはならない」(同書 3節)のである。なぜなら、「私へのこれ」の属性は、悪しきものと繋がりがありつつも良きものであり、ゾットと呼ばれるからである。私が先に述べたように、アドナイの御名の側は善意の時と呼ばれ、アドナイに属する聖なるものであり、正しきものから流れる良きものである。そしてその手で全ての生き物を養い、食物を与えるので、我々は「あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます」(詩篇 145篇16節)と述べており、それらに時に応じて食物を与え、「あなたは全てのものに美しきことをなす」と言われることの神秘である。

 そして思い起こすことと保つことの属性を結び付けることを知る者について、我々は「公正を守る人々、常に正義を行う人は幸いである」(詩篇 106篇3節)と述べている。先に述べたように、内側のセフィロトの間、セフィロトの外側にあるものの間で、彼はこれらの属性をもたらし、裁きにより守り、よってこの世界にいる万物へ豊富に祝福を与える。内なるセフィロトがそれらの影響を受ける時、この世界にある万物は豊富な力と高貴さ(アツィルト)を受け取るであろう。そしてこれは、「全ての時に聖なる行いをなせ」という格言の神秘である。だが、彼(神)に導かれる神秘なしに、如何にして人は全ての時、一日の全ての時に聖なる行いをなせようか? 人が裁きにより守っているこの属性と結び付くならば、彼は世界の全ての物事で聖なる行いをなし、セフィロトの外側に住む物事すらもであり、そこにはコル アト(全ての時)と呼ばれる全てが含まれている。

 そしてこの節の神秘の理解によって、我々は「〈神は〉平和をつくり、また災いを創造する」(イザヤ書 45章7節)と述べており、これは善悪の知識の木の神秘、良い時と悪い時の神秘であると理解するようにせよ。この平和は災いのすぐ近くにあるので、「平和をつくり、また災いを創造する」と言われる。平和は戦争の近くにあり、幸福は災いの近くにあるのではないのか? だが、この災いの近くにあると言われる平和によってのみ、真理を得ると知られている。この平和と呼ばれる属性は良きものだからであり、それゆえ「平和をつくり、また災いを創造する」と言われ、災いは全ての神秘である良きものと呼ばれる場所の、分割の外側にあるからである。そして、良きものと呼ばれる印の中で、創世の行いはなされているので、それゆえ、「エロヒム(神)が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記 1章31節)と記されている。

 29. そして時には、この属性はヤコブの全能者とも呼ばれる。そして小さな安息日と大きな安息日の神秘により、知恵(ホフマー)の鷹を理解するようにせよ。そして、アブラハムの全能者でも、イサクの全能者でもなく、ヤコブの全能者と呼ばれるものを知るようにせよ。なぜなら、これはヤコブの属性に拠っている属性だからであり、ヤコブはこの3人の中間に位置しており、祝福された御名「יהוה」の〈3番目の文字の〉ヴァヴ(ו)でもあるからである。そしてこの御名のヴァヴの神秘は、特にヤコブに拠るものであり、ティフエレト(美)の神秘により、アブラハムとイサクの属性もつかんでおり、アブラハムは右側に、イサクは左側に、ヤコブはその中間にあり、これは「ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた」(創世記 25章27節)の節の印である。そして、この穏やかな人の神秘は、ルラヴ (*3)の中央の葉の神秘の中にあり、ルラヴの中央の領域に天幕で住むという意味であって、それらには2つの天幕、アブラハムの天幕とイサクの天幕がある。なぜなら、それらはルラヴの2つの側面を形作るからである。

 そしてヤコブの神秘は中央の部分であり、ヴァヴの字の神秘なので、我々はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでおり、ヴァヴはヤコブの別名である。それゆえ、大いなる神秘、大いなる恐るべきエル(神)は、「そのとき私はヤコブと結んだ契約を思い起し」(レビ記 26章42節)と述べており、ヴァヴに満たされ、このヤコブとの契約とは、あなたの父祖ヤコブの神秘である。そして時にはこれは、封と印の神秘により、イスラエルの全能者とも呼ばれ、「このゆえに、アドナイ、万軍のハ=シェム(יהוה)、イスラエルの全能者は言われる」(イザヤ書 1章24節)。そしてこの方は、万軍のハ=シェム、イスラエルの全能者の神秘により、誰が主と呼ばれるのかの知識を持つ。既に私が知らせたように、低位の3つのセフィロトは、その根源であるヴァヴから吊るされており、それら低位の3つとはネツァフ(勝利)、ホド(威光)、イェソド(基盤)であり、これら3つ全ては、一般にツヴァオト(万軍)と呼ばれている。そしてあなたが右側にネツァフを、左側にホドを、それらの間にエル ハイであり、イスラエルの全能者でもあるイェソドを見い出した時、ネツァフとホドの間を保つイスラエルの全能者を見い出すであろう。それゆえ、これは「見よ、全地のアドン(主)の契約の箱」(ヨシュア記 3章11節)と述べられている。

 この主はまた、ハ=シェムの様々な御名が住む宮殿とも呼ばれている。それゆえ、イスラエルの全能者とは、アブラハムの全能者でもイサクの全能者でもなく、ヤコブの全能者のことである。そしてダビデ王の盾章(六芒星)であり、戦をなすに大いなるものであり、全地の主である。そしてヤコブの全能者の力は、「コウノトリの羽と羽毛がある」(ヨブ記 39章13節)の神秘により、落ちたと知られる者を強めることも知るのだ。そしてこれは、「鷹が舞いあがり、その翼をのべて南に向かうのは、あなたの知恵によるのか」(同 26節)の節の神秘であり、慈しみ(ヘセド)、忠実なるダビデ王への慈しみの属性の神秘である。そしてヤコブの全能者と理解(ビナー)との繋がりにより、「鷹が舞いあがり、その翼をのべて南に向かう」と言われる。この理解(ビナー)は7番目のヤコブの全能者の属性であり、そこにヨベルはその根源を送るからである。そして鷹と呼ばれる属性とヤコブの全能者との繋がりにより、全ての良きものを再生させ、満たし、それについて我々は、コウノトリの羽と羽毛と呼んでいる。さらにこれについて、「あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、鷲のように新たになる」(詩篇 103篇5節)と我々は述べている。

 そしてこの属性は、低位の慈しみ(ヘセド)と呼ばれるが、あなたはなぜそうなのかを知る必要があろう。それらには3つの種類の慈しみがあることを知るのだ。1つ目は高位の慈しみであり、高位の源から来ており、その中には慈しみと憐れみのみであり、裁きの要素は混ざっておらず、それらは良き慈しみと呼ばれ、「わが慈しみはあなたから移ることなく」(イザヤ書 54章10節)の節の神秘であり、これについて「王はハ=シェム(יהוה)に信頼するゆえ、エリヨン(いと高き者)の慈しみをこうむって、動かされることはない」(詩篇 21篇7節)と我々は述べている。そして、そして2つ目は、世界の慈しみ、アブラハムの慈しみであり、「真実をヤコブに示し、慈しみをアブラハムに示される」(ミカ書 7章20節)と我々は述べている。そしてイサクの恐れは、人々とアブラハムの慈しみとを分かつ、裁きの属性の神秘であるので、「かしこにその力を隠す」(ハバクク書 3章4節)と述べられているように、時にはこの裁きにより慈しみを防ぎ、「ハ=シェム(יהוה)よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く」(出エジプト記 15章6節)とも述べられており、そこにはアブラハムの慈しみも純粋な慈しみも無く、裁きが混ざっている。なぜなら時には、そこに勇敢さ(ゲヴラー)が増大し、その中にアブラハムの慈しみを隠すからである。それゆえ、アブラハムの慈しみは世界の慈しみとも呼ばれる。なぜなら時には彼は、この世界と結び付いている2つの属性の神秘により、すなわち、見えるものと隠されたものの神秘、上と下の神秘、右と左、前と後ろの神秘により、それを避けるからであって、それゆえ世界の慈しみの中には、正義と憐れみの両方があるのである。

 そして第3のものは忠実なダビデ王の慈しみと呼ばれており、それらはエル ハイの慈しみらで、次に来るのは良きものの慈しみらと、アブラハムの慈しみである。それらは〈全体として〉ダビデ王の慈しみと呼ばれ、この属性に到達している。そして、そこに慈しみらが引き寄せられたら、ダビデ王の都の道にシオンが来るのであり、ダビデ王の慈しみと呼ばれ、それからコウノトリ (*4)の舌におけるアドナイと呼ばれるアドナイの御名に到達し、これは「コウノトリの羽と羽毛がある」(ヨブ記 39章13節)の節の印である。そして平和と共にあるダビデ王が上位の慈しみを引き寄せたので、これらは良き慈しみとも、最初の慈しみとも呼ばれ、それについて「アドナイ(我が主)よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた最初の慈しみはどこにありますか」(詩篇 89篇50節)と述べられている。そしてダビデ王はこれを自らで呼び、「私のいのちをお守りください。私は神を敬う者だからです」(詩篇 86篇2節)と述べている。そして人の世代を通じて、このダビデの属性を我々は受け継いでいるので、「私はあなたの子孫をとこしえに堅くし」(詩篇 89篇3節)と述べられている。だが時には、「正しい者は災いの前に取り去られ」(イザヤ書 57章1節)と述べているように、このダビデ王の慈しみと呼ばれる属性は去って、上へ上へと集まるので、「ハ=シェム(יהוה)よ、お助けください。神を敬う人は絶え、忠信な者は人の子らのなかから消えうせました」(詩篇 12篇2節)と述べられており、これは忠実なダビデ王の慈しみの神秘によるものである。そしてダビデ王の慈しみを知る者は、「ハ=シェム(יהוה)に感謝する、ハ=シェムは恵みふかく、その慈しみは永久に絶えることがない」(詩篇 106篇1節)の神秘を知る。始めから終わり、その中間も、トーラーに暗に記されたこれらの事柄が、いかに深遠であるのかを理解するようにせよ。

 30. そしてこれらの大いなる原理を伝えた後、私はあなたにエル ハイと呼ばれる属性は煉獄のようであり、アドナイの御前にてその祈り〈が正当なものか〉を試すことを伝える必要がある。そしてこの宮殿は上にあり、そこでアドナイの宮殿へと入ってくる全ての祈りを調べ、〈悪しきものならば〉燃やす、多くの〈天使の〉番兵、多くの軍勢がある。そしてこの宮殿の中には祈りや叫び、懇願を調べる者らがいる。そして祈りが捧げられ、それらがアドナイの宮殿へと入ろうとするたびに、そこで調べられる。そしてそれがエル ハイの属性の道で宮殿に入る価値があるならば、門番らはその祈りを受け入れて、それを祝福あるハ=シェムの御前へともたらすであろう。そして人の平和の祈りが適切なものではなかったならば、その祈りは天には受け入れられない。そして、その全ての祈りの言葉は「偶像崇拝」として捨てられる。そして布告者は「その祈りは祝福あるハ=シェムの御前に入るなかれ」と宣言している。そして声が「私はハ=シェム(יהוה)である、これが私の名である。私はわが栄光を他の者に与えない。また、わが誉れを偶像に与えない」(イザヤ書 42章8節)と宣言する。そしてすぐに怒りにより、それらの祈りは取り除かれ、通過するのを拒絶され、入る事はなく、ハ=シェムの御前への門は閉ざされるのであり、これについて「エル(神)は乏しい者の祈りをかえりみ」(詩篇 102篇18節)と述べられている (*5)

 この場所で人の行った全ての祈りは止められ、調べられ、〈悪しき祈りならば〉損なわれるからである。そして多くの祈りは、価値がなく失われているのを見い出す。なぜなら千の祈りのうちの一つのみが、受け入れられる価値があると見られるからである。そして祈りが抑えられ、入ることを拒絶された時には、それらは全て偶像崇拝と呼ばれ、拒否された祈りであると知るのだ。祝福されたハ=シェムは、それらに入る場所を与えている。祝福されたハ=シェムが天を創造し、そこに管理者と門番ら〈の天使〉を定めた時から、天にいるそれらに延期され拒絶された祈りが全てもたらされて調べられ、それらが悪しき祈りならば天の外側へと追い払われ、立ち止まるが、偉大な意図による祈り、適切で完全な祈りならば、それは許可された祈りであり、ここを通過し、外側の宮殿へと入ることが許され、その御前で立つのであり、それ以外の全ての人々が祈った不適切な祈りはここから持ち出されて、それら全ては闇へと投げ入れられ、一つの適切な祈りのみがハ=シェムの御前へと入るのであって、全ての祈りの中でも、この試練に失敗しなかった一つの祈りのみを見い出せる。そして人の悔悛の祈りが神に向けられたものではなく、適切なものではなかったならば、それら受け入れられない祈り全ては、軍営や宮殿の外側で不浄となり、その祈りをした人は不浄なままとなり、悔悛の門は閉ざされるのである。


 

  • 最終更新:2023-08-22 12:42:55

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード